明けましておめでとう
2002年1月2日 / 宣教師の思考方式
21世紀最初の年が終わってしまった。
そして2002年の幕開けである。
今年は日韓同時開催のワールドカップが執り行われる。
私はこのワールドカップのために韓国語を勉強し始めたと言っても過言ではないので、ぜひ今年はこの韓国語を活かせる仕事をしたいと思っている。
さて、韓国語で「明けましておめでとう」はどのように言うか。
下記のように言うのだ。
sae-hae bog mani badeu-se-yo
セヘ ボン マニ パドゥセヨ
直訳すると「新年 福 沢山もらって下さい」となる。
昨年の始め、私は上のハングルを間違えてホームページに掲載したため、韓国の方からご指摘を受けた。
何を間違えたかというと「新年 福を沢山もらって下さい」と「を」を余計に書いてしまったのだ。
普通の作文で助詞を省くとしっくりしない場合と、省いても構わない場合の二種類が有ると思う。
しかし、この決まり切った挨拶というやつは、文法がどうのこうの言う前に「昔からそうなっている」から仕方がないのだ。
考えてみれば「明けましておめでとう」という日本語の挨拶も、文法的に考えるとしっくり来ないというか、外国人にしてみれば難解な日本語だと思う。
何が「明けた」から「おめでとう」なのか?
もちろん、新しい年を向かえたという意味なのだけど「あける」と言う漢字を変換すると「明ける」「開ける」「空ける」の3つが出てくる。
この中の「明ける」は「喪が明ける」など物理的な障壁でないものが無くなったときや、期間が過ぎた時に用いられる単語だ。
新年が明けたからと言って、なんで無条件におめでたいのだ?なんて突っ込みたくなる。(私だけかな?)
もちろん、昔は生きることすら大変な世の中だったから、生きて新しい年を迎えられるということ事態が、喜ばしかったからだろう。
それが「明けましておめでとう」という言葉に含まれている。
私が持っている韓日辞書の巻頭にこんなことが書いてあった。
言葉の一つ一つに、日本語のより深い味わいを見つけよう、見つけようと努力しました。
あなたは、前から日本語を知っています。
でも、言葉の味わいは限りなくあります。
もっと、もっと日本語を見つけましょう。
このコンテンツを書き始めて、何となく辞書の最初のページをめくったら、この言葉がふと目に留まったのだ。
1年ほど前に買った予備の辞書だったのだが、今まで最初のページから目を通したことが無かったので、新年早々素敵な発見が出来たと思う。
以前書いたことだが、言葉と言うものは複数の人がイメージを共通化させるための物だと思う。
しかし、その単語に含まれているイメージというものは、個人個人では若干異なってきてしまうし、自分がこんなことを言いたいんだと思って言葉を並べても、母国語であるのにも関わらず相手の取り方によっては、とんでもない誤解を与えてしまうことも沢山経験してきた。
言葉というのは「心の中で言いたいこと」を誰にでもわかるはずの、共通のキーワード、単語、動詞などの羅列で表現する。
その心を伝えるためのキーワードが「韓国語」に置き変わったとき、韓国語が持つイメージや味わいを知っていなければならない訳だ。
韓国語をゆっくり味わっていられるのもあと3ヶ月しか残っていない。
とにかく、読者の皆さん、セヘ ボン マニ パドゥセヨ
<02/01/02>