反オタク
今回「オタク」とは何か語るうえで、出てきたキーワードが「反オタク」である。
一言で言うなら「オタク」の反対語という意味。
そのためには「反オタク」ではない「オタク」を再確認してみたい。
オタクという言葉が日本に広まって15年近く経っていると思う。
オタクという言葉が無かったころは、マニアだとか熱狂的ファンだとか、別の呼び方が一般的だった。
現在勉強中の韓国語で、オタクに近い意味の単語を探すと、「何かに狂っている人」と言う意味で「○×狂」と言うか、ファンと言うのが普通である。
だが、オタクという意味の中には、何か差別的な意味が含まれている。
そもそも「オタク」という言葉が出来たのは「コミックマーケット(コミケ)」と言う漫画ファンが集まるイベントを取材した記者のコメントが端を発しているという。
コミケに集まってくる人間は、「太め」「やせっぽち」「チビ」「眼鏡」と言った、肉体的にコンプレックスを持ちやすいタイプが多いうえに、キャラクター物のTシャツにGパン、紙袋やリュックなど、ファッションセンスと言うものが無いに等しく、「漫画」や「アニメ」と言った「子供の見るもの」に関して熱く語っている姿が、異常に感じたという。
そして情報交換をする時「おたく、あの漫画見た?」とか「おたく、あの情報知ってる?」とか、相手を「オタク」と言っていたのが印象的だったという。
漫画やアニメに興味が無い人間にとって、コミケの空間は異次元に感じたに違いない。
そしてそこに集まる人間達を「自分には理解できない変な人種」と位置づけ、「オタク」という名詞を付けたのだと思う。
そして「私はあんなやつ理解できない」と奇異の目で「オタク」を見るようになったのだ。
それを決定づけたのが「宮崎事件」である。
被告の宮崎勉は複数の少女を誘拐、いたずらをした状況をビデオに撮影し、最後に殺害した。
事件発覚後、彼の部屋に溢れる漫画やビデオの山を見て、マスコミは「オタクによる猟奇殺人事件」と報道した。
宮崎は手に障害を持っており、それが子供のころからコンプレックスになっていたという。
そのコンプレックスから内向的になり、漫画やアニメ、特撮といった「仮想の世界」に興味を引かれたのだろう。
「仮想の世界」に身を置く人物、つまり「オタク」は「社会に害をなす人種」というレッテルを貼られ、世間はオタクを奇異の目で見るようになった。
私は宮崎が逮捕された新聞記事を読み、同僚に
こんな奴がいるから、良識有るファンやマニアが軽べつされるのだ
と言ったことが有ります。
熱しやすく、冷めやすいのが日本人。
事件の記憶も薄らいだころ「宅八郎」と名乗るタレントが出現し、お茶の間で笑いものになっていました。
ちょっぴり見た目は変だけど、オタクは人に害をなさないものなんだよ!って感じでした。
しかし、それに対するマスコミはやはり冷ややかだったようです。
パソコンオタクが、暗い部屋の中でモニターを見つめながら薄ら笑いしているとか、太ったアイドルオタクが事件を起こすだとか、そんな歪曲したドラマを沢山作っていました。
そして世間でオタクは「一般人には理解できない人物」と益々曖昧な言葉となって行った感が有ります。
ある日、深夜番組で日本武道のビデオを見ながら、タレントがげらげら笑っているのです。
「こんなビデオ、拳法オタクしか見ませんよ〜!パーティーで流して大笑いしてやってください」とまで言っていました。
確かにその武道の掛け声や、すり足は滑稽だったと思う。
しかし、古武道に興味がある人を「オタク」と言った発言に対して怒りが込み上げてきた。
一心不乱に何かに取り組んでいる人間を笑ったからだ。
他人をオタクと呼ぶ人間は、そのオタクの行動や思考方式が理解できないからオタクと言って、馬鹿にしたり奇異の目で見たりする。
私は自分のことを「オタク」と思っている。
それは他人から「オタク」だと思う「漫画」や「アニメ」「パソコン」の趣味を持っているからだ。
だから「オタク」の気持ちも凄く良く解る。
何が楽しくて、何が他人の目から見ておかしく見えるのかまで。
オタクに関して考え始めたのは平成3年頃であるから、実に10年もの月日が経っている。
ここ数年はInternetを通じて、様々なアプローチから「オタクとは何か?」を考えてきた。
私がオタクと呼ぶ人間達と意見を交換することで、少しだけ見えてきたことが有った。
彼らは自分らを「オタク」だとは思っていないのだ。
私の目から見て「オタク」なのになぜ?
だから彼らを「反オタク」と呼ぶことにした。
「反オタク」は「オタクの趣味を理解できない人間」、そして「オタクを馬鹿にする人間」という意味まで含んでいる。
会社の仕事などをしている時には、ちょっとだけ変わった人間くらいにしか思っていなかったのに、漫画について熱く語りかけてきたときどうなるか?
「漫画」「アニメ」など、市民権を得た趣味であっても、「漫画」に熱中する人間に違和感を感じたとき「あいつはオタクだ」と自分と一線を引き「反オタク」となるのだ。
しかしそういう話題に興味が無かったら、その「話題」という土俵から降りて、話をしなければいい。
だが「反オタク」は同じ土俵に上がることはせずに、やじだけ飛ばして逃げるのだ。
昨年「オタクな日常」というコラムの中で、あるアニメのセリフを思い出したと書いた。
30過ぎてアニメのセリフを覚えているというのは「反オタク」に奇異の目で見られてもしかたのない。
だが、私はアニメのセリフを切っ掛けに「オタクな日常」を書いた。
途中経過や材料が奇異に見えても、何かの結論に近づけたことに関しては、何も考えずに一日を送るよりはずっとましだと思う。
そして「何かに真剣に取り組んでいる者」を理解しようとせず「あいつはおかしいんだ」と「オタク」のレッテルを貼って、自分はへらへら笑っているような人間に会うことが出来た。
私は「オタク」である。
そして彼は「反オタク」という「オタク」なのである。
<01/08/10>
※ 韓国語バージョン <01/10/28>
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