オタクな日常(後編)
最近異常な事件が頻繁に起きている。
その理由の一つは「自分がよければ周りは関係ない」という義務を果たさず権利だけを主張する人間が増えてきたからだと思う。
そして自分の主張が正しいんだと、親や社会にたて突いて育った子供が親になったとしても、その子供はその親のまねをするだけである。
昭和40年代、学生紛争というものがあったと聞く。
若い情熱に燃える学生達が、大人たちの不正を許さないという非常に崇高な闘争であったはずなのだが、表面的スローガンは一貫しているようでいて、それに加わった人間全てが、崇高な情熱の元に戦ったと限らない。
「大人たちの世界は腐っている」をスローガンに、無制限な自由を求めた様な気がするのだ。
そしてそのお祭り騒ぎに奔走した世代が親になると、子供に「親の言うことを聞け」という矛盾を押し付ける。
もしくは、自分の子供を管理できないため、表面上は「子供の自由」という放任をする。
そして「子供たちが悪いのは社会のせいだ」とすり替える。
先生だってそうだ。
そういう親達に育てられた子供たちを「相手にすること」が、実に大変なのはわかるのだが、公務員なのに労働組合を作って自分の権利を優先している。
PTAには参加しない。
教師とは勉強を教えるのが仕事であって、昔のような恩師と呼ばれる存在になろうなんて思わない。
だから「蛍の光り窓の雪・・」なんて歌を歌いたくないという話も聞いたことがある。
なにかの力が働いてそうなった気がしてならない。(だとしたら、その力の成果は物凄くあったと思う)
私が中高生の頃だったと思うが、「3年B組金八先生」というドラマが大ヒットした。
私はさほど熱中して見ていたわけではないが、そのドラマには理想の教師像が描かれていた。
当時「15歳の母」というショッキングな話も有った。
中学生で妊娠してしまったという話だ。
あらすじだけで、最終的にどうなったのかまで知らないが、今だったら「気持ち言いことして何がわるいんだよ〜〜(-_-#」と逆切れする子供もいることだろう。
だが今は金八先生のように、私生活まで踏み込んでくるような情の熱い先生は、理想の先生像でないらしい。
現代の少年にとって理想の先生像とは
どんな悪いことをやっても、怒らず自分たちに言うことを受け入れてくれる先生
だという。
つまり授業中に酒を飲もうが、化粧をしようが、携帯電話で話をしようが、煙草を吸おうが、まず自分達を怒らず受け入れろと言っているのだ。
そして彼らの快楽を妨害する先生は「超〜〜むかつく!」ということだ。
今年の夏も、恒例の夜回りに参加し。
夜の10時頃、中学生風の男女が5人ほどが団地の下で、何をするでもなく、あちこちで唾を吐いていた。
彼らに「早く帰りなさいよ!」と言ったのだが、その内の一人が「俺はここに住んでいるんだから権利がある」と言ってきた。
昔のように殴ってしまいたいのはやまやまだが、興味があったので少年たちの意識調査をすることにしたのだ。
「ところで、偏差値というやつは随分前に無くなったって聞くけど、やっぱりあるんだろ?君の偏差値はいくつなんだい?」
「32位かな・・・」
驚きである。
自分も勉強はしなかったし、高校に行ったのも倶楽部活動をやるためだったといっても過言ではない人間だったのだが、偏差値は50はあった。(あまり自慢できる数字ではない)
機会が有るごとに、町の少年達にこの質問をした結果、驚愕の事実を知ることになった。
なんと、私の知る高校の偏差値が軒並み10以上下がっているようである。
そして東大への進学率トップという有名都立高校にいたっては、入る人がいないためどんな猿でも入学できる!
少子化という問題が有るのかも知れないが、受験勉強を全くしなくても入れる高校ばかりになってしまったわけだ。
勉強しなくても学校には入れるとなると、親は楽だけど。
だが、卒業どころか元々物を覚える努力をしなかった猿どもは、あっという間にドロップアウトする。
そういう物を覚える努力をしない人間達のために「ゆとり教育」という、ますます思考能力を育てない教育を進めるというのか?
この猿どもとは反対に、幼稚園の頃から学歴を持たせるために必死になっている親も存在している。
いわゆる「お受験」てやつだ。
物凄い両極端が進んでいるような気がする。
私は勉強の偏差値と人間性は一致しないという持論を持っているのだが、もしかしたら「人間性という偏差値も10以上下がっている」のかもしれないと思ってしまう。
人の批判ばかりするのもなんなので、少し自分のことを書いてみたいと思う。
小学生の頃、工作の時間で「空を飛ぶ昆虫を作ろう」という課題があった。
みな、トンボやカブトムシ、蝶などを作るのが普通だったのだが、私は「クモ」を作った。
「クモ」と言っても「雲」が昆虫であるはずはなく、昆虫の「蜘蛛」だ。
蜘蛛には羽が無いから飛べないって?
もちろん大きな蜘蛛ではなく、生まれたばかりの蜘蛛。
こいつは蜘蛛の巣を作るための糸をお尻から出し、風に乗って飛ぶ事ができるのだ。
結構子供の頃からひねくれてたんだろうなぁ(^^;
私が車の免許を取ろうと教習所に行っていたときの話。
教官に「自転車でゆっくり走るにはどうしたらいいですか?」と質問された。
教官は「ペダルを漕がずに惰性で進む」ことを模範解答として予定してた。
そしてその後、「車でゆっくり走る時は、クラッチを離して惰性で走る」と言うふうに話を進めたかったのだ。
ところが私は「ブレーキをかけて走っています」と答えた。
するとその教官は「ブレーキをかけながらじゃ前に進めないだろう!!」とアクセルとブレーキを同時に踏みながら怒りだしたのだ。
もちろん教官の言いたいことはわかったけど、自分の予想していた答えと違うというだけでこれだけ怒るとは驚きだ。
今でも自転車に乗って信号待ちをする時などは、地面に足を着けることなく、ブレーキをかけながらほとんど止まった状態でいるなんてこともやっている。
実際止まって見えるようでも、ほんの少しだけ進んでブレーキをかけるのを続けているのだ。
そういうとき、あの教官とのやり取りを思い出すのだ。
この程度の話で自分を表現できたと思ってませんけど。
さてサブタイトルの話。
学校の勉強ができるから頭が良いという方程式は成り立たない。
経済的理由で学校に行かなかった人も大勢いるだろうし、学校の勉強ができなくても頭のいいやつはいっぱいいる。
だから学校に行かない馬鹿と、学校のテストでいい点を取ることができるだけの馬鹿は、同じ馬鹿に属するからやっぱり馬鹿という認識を持っているのだ。
またしても自分の話だが、僕は数学の成績が良くなかった。
それはテストの点が悪かったからであって、数学は嫌いじゃなかった。
方程式みたいなものは「パズル」だと思っているし、時間が有れば絶対に解けるものだと確信してたしね。
だけどその方程式自体はことごとく、実社会に役立たないということも実感している。
だけど、数学というやつは「こうして、こうして、こうだから、こうなる」と、筋道立てて考えるための道具みたいなものとして役に立っていると思う。
そして、学校という実社会とは隔離された価値観を共有する場所において、ひとより優れていると思い込んでいる世間知らずのお子様や、全て見切ったと思い込んでいるやつが、インターネット上で「オタク」として存在しているような気がしてならない。
私も以前はそのくちであったのだからよく解る。
だが、今は少しでも前向きに物を考えることによって、ほんの数時間前にやったことでさえ反省したり、もっとこうしたほうが良かったもとか、常に勉強している。
そしてこのコーナーをひたすら書いているのだ(^^;
最近「抗菌」とか「除菌」という言葉をよく聞く。
ばっちいのは嫌だが、世の中には化学物質に過剰に反応してしまうという特異体質になってしまい、困っているひともいるらしい。
先日やらせではないかと思うほど、ひどい女の子をテレビでやっていた。
とにかく奇麗好き?で、人が触ったものなどは汚くて持てないというのだ。
そして自分の家以外のトイレに入るときなど、備え付けてあるトイレットペーパーを一つ以上使って、便座以外の壁などを拭いているではないか!
ところがその子の部屋というのはゴミだらけ。
食い散らかされた御菓子の中からゴキブリが出てきたことも有ったそうだ。
だが、「私の部屋はきれいだからゴキブリも汚くない」そうだ。
可哀想な奴・・・
これは本当にうわべだけの奇麗好きなんだろう。
空気中にも体の中にも「菌」は沢山いる。
そしてそれをすべて駆除しなくて生活できないほど、人間はやわではないのだ。
自分は奇麗だが、他人は汚いと思うという精神病の域に達しているのだ。
これは極端な例だが、オバサンにしてもお猿の話にしても「自分は奇麗で、他人は汚い」という心の無菌体質がその根底に有る。
そして直接、人と触れ合うこと→例えば人に文句を言うことなどは、人との関係を悪くする汚い行為なので、自分ではやりたくない→第三者の力を借りるようになるのだと思う。
だから「腹を割って」なんてことはしなくなるし、うわべだけの付き合いに終始することになる。
結局、心の無菌室でしか生きられなくなってしまうようなもので、問題に向かってぶつかってゆくという、本当の抵抗力がなくなってしまう。
「過ぎたれば及ばざるがごとし」
そう言う人の方が、よっぽど心が汚れていると思うのだ。
(だから金を払えば幸せになれると言うような安直な宗教にはまるのだろうな)
Internetというのも無菌室みたいなところだ。
言うことだけ言って、他人の意見は「あほらしくて読む気にもなれない」と言ってしまうオタクがよくいるしね。
パソコンを通じてInternetをやっているときは、モニタに向かっているのは基本的に一人だけで、周りには人はいないと言っても過言ではない。
自分だけの干渉されない世界がそこに存在するわけだ。
前にも書いたけど、ドロップアウトしてしまった少年たちが夜中に徘徊するというのは、自分達だけの干渉されたくない世界にいたいという部分があるのだろう。
以前、「物の考え方講座」の「問題3」や「煙たいね〜」というコラムにも書いたのだが、人間は「頭の中にあるものしか見えない」というのだ。
物を知らない人間なら、それを知らなかったという事を反省して成長する。
だが、すでに完成された人間だと思っている人間は、それまでの自分の経験だけで物事を判断し、仮にそれが間違っていたとしても反省しないし、その責任は自分に無いと判断する。
概念的なことばかり書くと解りづらい。
これはやはり現実の話を書くことにしよう。
私は車が好きで運転も好きだ。
そして普段一番気をつけていることは、周りをよく見て運転するということだ。
なにしろ目がついているのに見えていない人間が沢山いるのだから、当然の自衛手段なのだ。
頭の中に「この狭い十字路を通り過ぎるとき、横から自転車が出てくるかも知れない」と思ったら、当然減速をするはずだ。
だが「俺の車線は優先だ」という権利意識しか頭にないと、いつの間にか本当にその方向から飛びだしてくる自転車の姿が見えないのだ。
よく事故の現場を見る。
それが高速道路の壁にへばり付いているスポーツカーなら「スピードの出し過ぎで、運転が上手いと思い込んでいるやつが事故ったのだろう」と思う。
だが交差点の衝突事故を見ると「前を見ていればぶつかる訳ないのに」と思う。
結構車間距離を取らないで走っている人も多い。
前の車が止まったらぶつかっちゃった!なんていうのは前を見ていないのだよ。まったく(-_-#
それなのに「おまえが急に止まったからだ!」怒るやつがいる。
追突されたら「むち打ちになったと言えば保険金が貰える」というような知識も蔓延しているが、ほとんど保険金詐欺だ。
逆にそういう前を見て運転していないやつがいるから、保険金詐欺師という仕事が成り立っているんだろう。
こんな話は学校の勉強では絶対に教えてくれない。
知っているやつの方が勝ちだ。
車という閉鎖された空間にいると、周りのことに無頓着になる人がとても多い。
それが当然だと思っている、お猿の電車、もとい、お猿の運転する車は飛びっきりの凶器になる。
最近高級車を白塗りにして、窓はフィルムを貼って見えないし、でっかいマフラーとエアロパーツをつけて、耳が悪いのかと思うほどの大音量のボコボコサウンドを聞きながら、サングラスを掛けて帽子をかぶって、ヒゲをはやして吹っ飛ばすやつが大勢いる。
そう言うやつを見たらそいつにはなるべく近づかない。
いや、近づかなくても横から吹っ飛んでくる。
踏み切りが下がり始めたのに渡ってきたりする。
パトカーに追われてもその調子で逃げる。
赤信号でもクラクションを鳴らせば俺が優先だと思う。
彼らの周りには法律というものがないと思っているのだろう。
捕まらなければ全て無かったことと同じと思っているのだろう。
きっと車庫も借りずに、道路に止めて、税金も払わない。
ガソリンも入れたら金も払わず逃げるようなことを日常茶飯事にやっている人種なのだろうなと思う。
「天に唾する」という言葉がある。
天に向かって唾すれば、重力で唾は自分に落ちてくる。
悪いことをしても、必ずその報いは自分に返ってくるという意味だろう。
だが最近はそういう諺を習ったことが無いのか、警察や親に捕まらなければ、何をやっても無いことと同じとでも思っているのだろうか。
だが天に唾しても落ちてこないから、大丈夫だと思っているのかもしれない。
だがそれは、天に向かって吐くつばの勢いが強いため、落ちてくるのに時間がかかっているだけだ。
いつ落ちてくるかは、神のみぞ知ると言ったところ。
落ちてくるのが遅ければ遅いほど、その唾はとんでもない勢いで直撃することになる。
こんな話を聞いたことがある。
お天道さまは自分を中心に回っているんだと思っていた、猿のような不良少年少女が「出来ちゃった結婚」した。
しかし元々世間様をなめきっていた人間達に、ろくな生活ができるはずがない。
二人は直ぐに離婚し、女は乳飲み子を抱えて実家に帰ってきた
しかしその女は真っ当に汗水流して働くなんて考えは全く持っておらず、さすがに自分の子供を置いて新しい男を探しに行くこともできないため、こんな愚痴を言い続けているそうな。
親が私の面倒を見てくれない。親は子供の面倒を見る義務があるのに
猿が猿のままでは、そいつは猿の子供しか生めないし、育てられないのだ。
小猿が哀れであるが、自分の力で人間になってもらいたいものである。
まだまだ書きたいことは山ほど有るのだが、そろそろ結論づけたいと思う。
私が「変なオタク」と言ってしまうやつは、おそらく日常ではやはり変なやつかも知れないが、ほとんどその趣味の中でしか自分をアピールできない人間なのかと思うのだ。
つまりInternetという「水」の中でしか「オタク」という空気が目に見ることができないということだ。
だから昨年「変な人はいるもんだ」で「自分の周りにはそんな変なやつはいない」という印象を持ったのだ。
このことはあらゆることに言える。
車に乗って無謀な運転をするやつは、物の考え方がずれているから、車という気泡の中に入ると道路という「水」の中でその本性をさらけ出してしまうのだ。
馬鹿な女子高生達も、学校という淀んだ水の中では自分らの価値観をアピールできると思い込んでいる。
だが、実際社会に出たときのギャップの大きさに驚くに違いない。
顔黒茶髪で厚化粧の子供がその格好で仕事をしようとしたら、どこに行っても雇ってくれなかったという。
彼女は言う「見た目だけで判断しないで!超〜むかつく」
「見た目で判断するな」というのはそう言う意味ではない。
「名は体を表す」というごとく、ほとんど見た目で判断できる奴が多いということを知らないで言っているのだ。
「問題4」で書いたように、見た目だけの個性を主張する人間は、目をつぶっただけで「無個性」になるだろ?
そしてシルバーシートに当然のごとく座ったりする、猿のような人間性を露呈するだけだ。
「羊の皮をかぶった狼」なんて格好良い言葉が有るが、顔黒の女子高生が使うべき権利は無いも同然だ。
どちらかというと「トラの威を借る狐」が近いかも知れない。(今度言ってみよう)
今回、あえて現実のお話ばかり書いたが、各お話はたかがパソコンのことで熱くなっている「変なオタク」たちの主張にリンクしてしまう気がするのだ。
「おたくって、どこにいるの?」
「それは気付かないだけなんだよ。空気だって目に見えないだろ? だけど水の中ではその存在がはっきりと判る。そんな感じかな」
<99/12/18>
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