そんなオタクの独り言

 ここでは平成3年末頃から平成4年頃までに書いた、私のいたずら書きをアップしています。
 くだらないことにも、変に深く考えてしまうというのは、私が根っからのオタクなのでしょう(^。^;)
 若かったので、ずいぶんと吠えまくっています。
 けっこう恥ずかしい(^。^;)

1 オタクについて
2 新3人の職人
3 八方美人
4 悲しい話
5 一太郎的
6 リバーシ
7 最近思う
8 わかわか
9 目つきについて

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オタクについて

 某月某日、本屋の漫画コーナーで捜し物をしていた時のこと。
 私の隣で、中学生らしい少年二人が漫画を選びながら話をしていた。
 少年の一人が講談社刊、藤島康介作の「逮捕しちゃうぞ」を見て
「この漫画読んでみたいけど、オタクになりそうでやなんだよな」と、話していた。
 私は思わず「おい、少年!そんなにオタクが嫌か!」と、少年をドツキ回した(はずは無い)。

 作者はどう思っているか知らないが、確かに「逮捕しちゃうぞ」は、オタク受けする要素の詰まった漫画と言えるだろう。
 まず、「美人」の「婦警さん」二人組が主人公。
 片方はどちらかというと可憐な感じ。反面、メカマニアで、白バイやミニパトをカスタムチューンしてしまう。
 ドライビングテクニックも凄い。
 同じ署の、白バイ隊員とラヴストーリーも有り。

 一方は、プロレスラーの子供(?)で、肉体派。怪力の持ち主だが、健康的なお色けが売り物。
 伯父様タイプが好み。

 他にも、個性的なキャラクターが登場し、それぞれのキャラにファンも多い。
 絵も奇麗でうまい。
 バイクや車のアクション、エアガン、パソコン、美少女、お色けと、美味しい所がテンコ盛りな漫画だ。
 しかし、キャラクターの個性でもっている漫画だとも言える。

 他にも、オタク受けしている漫画といえば、映画にもなった、「サイレントメビウス」、「アップルシード」「ドミニオン」など。
どれも、何処かで見たような、キャラクター(女の子)が主人公(よくアニメ絵といわれるやつ)。

 メカデザインや背景は、大友さんのパクりっぽい。
 どの作品も、いつ終わるのか解からない戦い続くが、結局はキャラクターや、メカデザインが売りだから、ストーリーは煙に巻かれている。
(その割に裏設定がびっちり!そんな設定決めてる暇があったら、ストーリーを進めろ!)
 「サイレントメビウス」などは、キャラクターの紹介だけで、単行本4冊。
いまだ序章だといっている。
 表紙絵でピンとくる「オタク」漫画は、難解なストーリーだけでなく、画風だけで避けられてしまうのかもしれない。

 某月某日、深夜テレビを見ていて。
 番組名などは覚えていないが、バラエティのビデオの紹介コーナーだった。
 「柳生流古武術(タイトルはよく覚えていない)」の入門ビデオが一部が紹介された。
 ビデオの中で、柳生流の基本の姿勢や、掛け声の仕方、実戦での小刻みなスリ足など、実に貴重な指導ビデオのはずだった。
 ところが、ビデオを紹介した人達は
「こんなビデオ、拳法オタクしか見ませんよ。」とか、「パーティで流して、大笑いして下さい。」などと言って、大笑いしていた。
 確かに掛け声や、すり足は滑稽だったと思う。
 しかし、自分達が理解できないことを笑いとばしたり、古武道に興味がある人は、「オタク=変人、社会不適合者」的、発言には腹が立ってきた。

 おい、司会者!
 トレンドばかり追いかけてる、マスメディアの異端児が、大衆の代表者だと思ったら、大間違えだ!

 さて「宮崎事件」以来、「オタク」と言う言葉が定着したが、オタク=「社会不適合者」と見られ、一般には「暗い部屋で一人、ビデオ(パソコン)を見て、時々不気味な薄笑いを浮かべている不気味なやつら」とか、コミケットに集まり、いい年こいてアニメの仮装をしたり、スケベな同人誌を売買している風景が、紹介されている。

 オタク(?)が犯罪を犯すタイムリーなドラマも放送されたり、「オタク」と呼ばれるのを恐れ、先の少年のように「選択の自由」を脅かされていたり、オタクに対する世間の目は、あまり良くないようだ。
 しかし、オタクの一世風靡をしたといえば、かの「宅八郎」だろう。
 人は、みずから嫌われ者になったり、変人のふりをするのは大変な勇気がいる。
 彼が、オタクのイメージをアップしたかどうか解からないが、あれだけ自分の個性を出せば立派なものだ。

 私も「オタク」にと呼ばれたこともあったが、最近はそのことをあえて否定しない。
 かつて「オタク」と言う言葉がなかったころは、「ファン(ミーハー的)」、「マニア(没頭的)」、「フェチ(崇拝的)」と、段階を踏んだ言葉があった。
 だからといって、「俺はアニメオタクじゃなくて、アニメファンなんだ!」と、主張しても世間様には通用しない。
 問題は、オタクに見られる悪い点、「他人に理解されないなら、世捨て人にさえなる」というのをやめ、宅八郎のように、もっと自分の趣味嗜好にプライドを持つのだ。

 去年はバンドブーム、今年はダンスブームだと言われているが、ブームの前は、髪の毛を染めたり、逆立てている事に、世間の目は冷たかったはずだ。
 しかし、ブームはやがて去るもの。そこに残る人は、広く世間に認められた、本当の実力者である。
 「彼は、人に左右されない、強い意志を持った奴だ」と言われれば、褒め言葉に聞こえるが、自我を保つために「堅い殼」にこもっているのではいけないと思う。

 コンピュータに例えるなら、オタクと呼ばれる人は、入力デバイスに優れ、内部での情報整理能力は高いが、出力デバイスが非常に限られている。

 小説だって、どんな素晴らしい文章も、印刷されない事には、広く世に知られない。
そう、「堅い殼」でなく、時代という河に流れている養分を吸収し、情報という雨風に負けない「太い幹」が必要だ。
 「堅い殼」を持つオタクは時代に流され、情報に飛ばされてしまう。

 今からその殻を破り、発芽すべきだ。自分の趣味をを隠さず、社会にもまれて修業するのも良いだろう。
 そのためにはなによりも、現在持っている仕事に精を出すことが必要だろう。
 それぞれの仕事をやっているうちに、趣味を活かす時がきっとある。
 今まで吸収した養分は、人とはかなり違ったものだから、かなり個性の強い実が成るに違いない。

 断じてオタクは「社会不適合者」ではない。

平成3年11月29日

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新3人の職人

 昔話に、三人の職人とゆう話がある。
 ある日、建設途中の教会を通り掛かると、「職人」が煉瓦を持って作業をしていた。
 その職人に問い掛けた。

「あなたは何をしているのですか?」

 一人目の男は、「煉瓦を積み上げているんだ」と、答えた。
 二人目の男は、「時給千円で、働いている」と、答えた。
 三人目の男は、「歴史に残る教会を建てているんだ」と、答えた。

 これは、上司が部下に、仕事に対する心構えを教えるための「昔話」である。
 ある日、建設途中の教会を通り掛かると、「作業員」が煉瓦を持って作業していた。
 その作業員に問い掛けた

「あなたは何をしているのですか?」

 一人目の男は、「見て解からないのか?バーカ!」と、答えた。
 二人目の男は、「上司に命じられました」と、答えた。
 三人目の男は、「教会を建てているんだ。」と、初めてまともな答えが帰ってきた。
 その後、男は溜息をつきながら言った。
「こんな材料じゃ、いいとこ百年しかもちゃしない。」

 これは、部下が上司に「もっと現場を見てモノを言いなさい」と、憎まれ愚痴を叩きたいのに、ぐっと心の中にしまい込んでいた「実話」である。

平成3年11月19日

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八方美人

 平成3年11月4日、「文化の日」の振替休日。
 私は束の間の安らぎを求め、東京千代田区秋葉原に向かっていた。
 その途中、JR総武線内での出来事。
 吊革につかまり、窓に流れる景色を、うつろな目つきで眺めていると、隣にいた中学生らしい二人の少女の会話が聞こえて来た。
 聞く気はなかったのだが、一人がひどく腹を立てていたのだ。

A子「ねー、B子。C子ったらホント頭に来ちゃうんだよ!」
B子「えー、どうして?」
A子「この間さー、みんなで学園祭に行こうって話してて、C子も誘ったの。」
B子「それで?」
A子「「D子さん達と行く約束したの」って言うから、私どこの学園祭に行くか聞いたの。そしたら、私達と同じ所行くから、「向こうで会うかもしれないね」って、言ってたくせに違う学園祭に行ったんだって。頭来ちゃう!」
B子「?」
A子「それなのに、C子ったらなれなれしいのよ!私のこと「Aちゃん」何て名前で呼ぶのよ。」
B子「いいじゃない、同じクラスの子なんだから。」
A子「嫌なの!私は仲良しの子としか、話ししたくないの。」
B子「おかしいよ!そんなの。」
A子「じゃー、八方美人に誰とでも仲良くしろって言うの!嫌よそんなの!」

 私は、その時「八方美人っていうのは、そんな使いからをする言葉じゃない!お前みたいなこの前までランドセルしょってたやつが、ませた口きくんじゃない!」と、意見してやりたかったが、喉まで出かかって辞めた。

「A子ちゃん、人生これからだよ。」

 私は心の中で、彼女が将来、あんな性格を後悔し、涙する日を思い浮かべ、秋葉原のホームへ降りた。

平成3年11月9日

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「悲しい話」

 最近、凄く感受性が強くなったと思う。
 何かに連れ感動して、涙してしまうこともあるし(去年はちびまる子ちゃんの映画を見て泣いたな・・・・)テレビを見ながら「ホ〜」とか「へ〜」とか、声をだして感心したりする。
 お気に入りのテレビは「関口浩の知ってるつもり」だ。
 仕事の関係で毎週見ることは出来ないが、自分の知らなかった偉人などを見ると「なんて凄い人が昔にいたんだ」と感心する。
 ヒット作品のないアニメでは「おぼちゃまくん」だ。
 最近はこれほどまで徹底した、ばかばかしいギャグまんがは見ることはない。
 凄く古いタイプのまんがだが、シンプルなのがいいのだろう。
 「おぼっちゃまくん」を一人で見ている時などは、ガハガハ大声をだして笑ってしまう。はた目には変だろうが、実に気分がいい。

 逆に嫌な番組は、いわゆる「トレンディードラマ」だ。
 見る気もなかったが、先輩がチャンネルを回してしまったので仕方なく最初だけ見た。
 「もう誰も愛せない」
 数秒毎に変わるカット、やたらと「愛」とかいう言葉がでてくるが、吉田栄作以下、まともな役者はでてこない。
 一回でも見逃すとわけが解からなくなる、息も尽かせぬ(つじつまの合わない)ドン伝返しが売りらしい。
 「愛」のドラマ(?)に巻き込まれ、次々と人が殺されていく。
 人が死ぬ度、主人公は悲しみにくれる暇なく次の週へ。
 見ているほうが恥ずかしい。

 私は先輩に「こんなドラマのどこが面白いですか」と、はっきり聞いてみた。すると
 「この、どろどろした人間関係が面白いんだ」と、言う。
 「こんな現実を無視したような話がですか?」と聞き返すと
 「お前は女と付き合った事がないから解からないんだよ」と言われた。
 女とは付き合ったときはないけど、面白い話を作ろうと努力はしたことがある。

 恋敵に睡眠薬を渡して「彼に迷惑をかけたくないなら、これ飲みなさい。これが私の愛し方よ」だと!
 自殺を強要するな!
 人情のかけらもないドラマなんて見る価値がない。

 最近のドラマの中では、人が死ぬことが「最高の悲しみ」と、設定されているらしい。
 又、人々の感心は殺人とゴシップの尽きるらしい。
 それにしても、人が殺されていくドラマが多すぎる。(その殺され方のバリエーションでお話しが作られる。警察や司法を無視して・・・・・)

 果たしてどんな人がこのドラマを作り、どんな人が見て、評価しているのだろうか?
 「吉田栄作とか、顔作りのいいタレントが出てれば良い」というなら文句は言うまい。
 とりあえず、その場限りの視聴率が取れるのなら、それでいいのだろう。

 人が死ぬのは悲しいことだと思う。
 その悲しみは、その人と一緒に生きた人の悲しみである。
 しかし、トレンディードラマの中では、意外な登場人物が殺されていくことがストーリーの面白さ?になっている。
 これ以上言うまい。(段々腹が立ってきた)

 幸せってどんなものだろう?
 悲しみってなんだろう?
 六本木辺りでたむろしているミーチャン、ハーチャンの幸せってどんなもんだろう?
 毎日男に貢いでもらうブランド商品か?高級な食事か?
 そんなものもらって本当に幸せか?(もらったときだけは幸せかも)

 平成に入った日本では「悲しみ」と言う言葉が馴染まなくなっている。
 1億を越える国民のほとんどが中流以上の生活をしていると聞く。
 しかし、物質的には恵まれているのに、心では満足感がないと言う人が多いそうだ。
 そんな人達が「大川隆法」などのお手軽宗教にすがって(?)東京ドームに行くようだ。

 私は幸せの答えを、チャップリンに見つけたような気がする。
 「関口宏の知ってるつもり」で、チャップリンの生涯を見てこれだと思った。

 チャップリンは少年の頃、極貧の生活を送っていたが、その生活の中でも「誇りと愛をもって生きる」ということを母親から学んだ。なんてできた母親だろう。
(しかし、その最愛の母も、極貧に耐えられず発狂してまったという、; _ ;)

 そんな少年時代を送ったチャップリンがどんな映画を作ったかは皆さんのご承知の通りである。
 生きることの苦しみを、そして悲しみを知っているからこそ、本当の幸せがなんであるか解かるのだろう。
 そして時代を越えた素晴らしい映画を作れたのだろう。

 今、面白いお話しを書きたいが、なかなかまとまらない。
 読む人を感動させるお話し。徹底したコメディー。
 「人の心をつかむ」お話しを書きたいものだ。
 そのためにはもっともっと、人の心を知らなければいけないのかな?
 そんなに大きく構えたくないけど・・・・・

平成4年1月13日

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一太郎的

 日本で、パソコン用ワープロソフトと言えば「一太郎」だろうと、答えが帰ってくる。(注:平成3年の話)
 「Ver4」発売時のテレビコマーシャル
 駅のホームに、所狭しと貼られた巨大なポスター

 パソコンとは全く縁のない人達も巻き込んで「一太郎」はパソコンソフトの枠を越えたものになった気がする。
 私も、初めて覚えたパソコンでのワープロソフトが「一太郎Ver3」であったため、つい最近まで「ワープロは一太郎じゃなければ嫌だ」と思っていたぐらいだ。
 なにしろ、性能は二の次に、ユーザーが多いのは強い。
 「一太郎」が使えれば、パソコンはもう一人前だと思われるからだ。

 これだけ、コピーが蔓延していれば、分かりやすい解説書も出回っているし、分からない事はすぐ近くのユーザーに聞ける。
(ジャストシステム恐るべし!)
 しかし最近、マッキントッシュで「EGブリッジ」という、素晴らしいFEPを使うようになり「一太郎神話」は「寓話」としか思えなくなってきた。

 ワープロソフトの命とも言えるFEP「ATOK7」は、その本体自体に辞書登録機能が無い。
 しかも、EMSメモリーを使わなくてならないほど、デカイ。
 その点「EGブリッジ」は、「ゆーぴーカード」などに、ただ同然にバンドリングされているにもかかわらず、メモリーは食わないし、辞書登録もいつでも簡単に行なえる。
 そして決定的なのが「一太郎」は、他の素晴らしいFEPを全く受け付けないと言う事だ。

 他社のワープロソフトはそんなことは無いのに、「一太郎」は非常に封建的で、姑息なソフトであることがわかってきた。
 しかし、日本のコンピュータ界は、既にジャストシステムを中心に回っているのだ!
 一太郎帝国の灰色の栄光は続く。

 私は「EGブリッジ」の素晴らしさを知ってから「エプソン PCー386ノートA」に「VZエディター」を乗せ、ワープロ代わりにしている。
 人にはワープロ専用機にしか見えないことだろう。
「ずいぶん小さいね。」とか「プリンター付いてないの?」と聞かれる事もあるが、私は「能ある鷹」になり、大したものじゃ無いですよ、と答える。

 その日は執筆活動をやらず、弟からもらったPDSを解凍していた。
 解説文など、何気なく眺めていると、某庶務係長が後ろから近づいて来た。

「君の課はエプソンなのかね」と、突然聞いてきたので、

「いや、これは私個人の物ですから。」と、当たり触りなく謙虚に答えた。すると、

 だめだよ、そんなもの買っちゃ。互換性とか考えなくちゃ!
 課には課の機種が有るだろう。同じもの使わないと、後で苦労するぞ!
 それに覚えられないだろ。
 分かっている人がいなきゃ無理だよ!

だって・・・。

 「はあ、そうですね」とは、言ったものの「誰に向かって口聞いてるんだ!こちとらコンピュータ歴5年だ!」と、心の中で思った。
 この某庶務係長、いつも馬鹿デカイ、ラップトップワープロ(把手の付いたデスクトップ)で、自慢げに仕事をしている。
 互換性を考えてか、周りの人は皆同じ機種だ。
 うちの会社では、まだまだワープロを使える人は少ないのだ。
 ワープロの出来る幹部の中には、数年前流行った、5キロ以上も有るワープロ専用機を新入社員に運ばせ、「これからは、ワープロ位出来なきゃ駄目だぞ!」と、鼻高々の人もいる。
 うちの会社ではワープロに向かっていると、仕事をしているように見えるらしい。

 「支社長と同室にいると、何かと用を頼まれるから、ずっとワープロに向かっていたよ」とか、事務室でワープロをしている部長さんがいたので、どんな仕事に使っているのか覗いてみると「いやぁ、暇だから単語登録をしているんだよ」などと言われ、ガクッとなった経験がある。

 係長は「386ノートA」を、ワープロ専用機と見たのかどうか、定かではないが、同じ会社の機械でないと、互換性で苦労するだとか、人に習わなくては覚えられないだとか、実に「一太郎的」だ。
 西遊記で孫悟空は、「世界のはてまで飛んだつもりが、お釈迦様の手のひらの中だった」と言う話があるが、某班長はその事にも気づかず、「釈迦に説法」をした様なものだ。

 もっとも、コンピュータ歴5年だと言っておきながら、バッチファイル位しか組まず、マッキントッシュに手を染めた自分って、いったい?(ゴーン!)

平成3年12月2日

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リバーシ

それは黒と白のゲーム。
黒に挾まれた白は黒くなる。
白いままでいたいのに黒にさせられる。
でも、黒は悪ではない。
立場が違う敵なだけだ。

今日、君の右隣に黒い服の友人が座る。
明日、君の左隣に黒い服の友人が座る。
君は黒い服に着替えるのか?
君は黒い服に着替えさせられるのか?
君は黒い服を着たいのか?
君は黒い服を着なくてはいけないのではないか?

見たまえ!
君の周りは黒一色だ。
君はあきらめて黒い服に着替えるのか?
白いままでいいと抵抗するのか?
黒の方がいいのに、白がいいと突っ張るのか?

でも、負けた白は悪ではない。
黒より白が少なかっただけだ。

 リバーシを書いて

 私が最近感じていることを詩の様にしてみた。
 もちろん詩を書くなんて始めての試みだ。
 お読みいただいて、どう感じたろうか?
 全然、意味がわからなかったかも知れない。
 非常に暗い雰囲気の文章だと今さらながら思う。

 不本意ながら、解説というか「最近感じていること」を交えて、なぜこの詞のような物を書いたのか、簡単に紹介してみたい。

 まず、リバーシと言うゲームをご存じだろうか?
 日本では「オセロ」と言ったほうが通りが良いだろう。
 オセロは日本人が考案したゲームだと聞いたことがあるのだが、リバーシはそれよりもっと前から存在したという話も聞く。
 どなたか本当のことを教えて欲しい。

 さて、オセロにしてもリバーシにしても、二人でそれぞれ「黒」と「白」に分れて、一定のルールの上で、自分の色を増やして行くゲームである。
 黒いチップを選択してしまえば最後まで「黒」だ。
 途中白の方が優勢だからと言って、白になることはない。

 一般的に、黒というイメージは「悪」とか「暗」とか悪い言葉が沢山出てくる。
 だからと言って、ゲームの上では「黒」は悪人がなるものではない。
 じゃんけんなどで仕方なしに決まってしまうものだ。
 一旦「黒」と決めたら、敵は「白」であるし「白」は悪と言っても構わないだろう。
 つまり立場が変われば、見方と態度が180度変わってしまうということだ。

 立場と見方と態度。
 人間関係あてはめる。
 例えば社長と社員。

 社長は社員を出来る限り安い賃金で雇い、効率良く働かせ、最高の利益を社長のポケットに入れるよう、頑張ってもらいたいと思う。

 社員は高い賃金を要求し、出来るだけ小さな労力と、短い労働時間と、休暇をを社長に要求する。

 しかし一方的な要求だけで収拾がつかないから、お互いどこかで妥協をすることとなる。
 そして、社長は口々に「社員有っての会社だ」と言い、社員は「会社のためなら命を掛る」と忠誠を誓うこともあるだろう。

 「本音と立前」と言う言葉がある。
 「あの人は裏表のない人間だ」という褒め言葉がある。
 私も20数年間生きて来たが、出来る事なら後者になりたいと思ってきた。
 しかし、社会で生きて行くためには「本音と建前」を使い分けなければならない場合が多分に有り、時には後者のままではいけないときもある。
 そしてどうしても自分の信じた道を貫き通したくなったときには、その会社を辞めなければならない時も有るだろう。
 それが会社の論理だというのだから、理不尽な仕打ちを受けることくらい予想したうえでの行動を取るわけである。

 「腹を割って話そうや」といっといて人の弱点を探り、安心したところで寝首をかく奴がいると思えば、「お前なんか死んじまえ!大馬鹿野郎!」と、我が子を谷底に突き落として、心で泣いている偉人もいる。

 どうやら「本音と立前」にそれぞれ悪と善の4パターンが有りそうだ。つまり、

 1、心の中で「良いこと」と思って、「良いこと」をする
 2、心の中で「良いこと」と思って行動したが、結果的に「悪いこと」になってしまう。
 3、心の中で「悪いこと」と思って行動したが、結果的に「良いこと」と評価される。
 4、心の中で「悪いこと」と思って、わざわざ「悪いこと」をしてしまう。

 そして更にその行ないを受けとめる側によっても違ってくる。
 立場によって180度、受けとめ方が変わる。

 1〜4に対して、良いことと受けとめ賛成する。
 1〜4に対して、良いことと受けとめるが、利害関係がからみ反対する。
 1〜4に対して、頭から悪いことと受けとめる。反対する。
 1〜4に対して、頭から悪いことと受けとめるが、世の中に反発したいから賛成する。

 忘れてはいけないのは、本音と建前というはっきりとした認識がなく行動する人。
 個性という要因もあるし、行動を導きだす意志の決定過程にはほぼ無限の分かれ道が存在すると言える。

 切りが無いから、この辺でやめる。とにかくややこしい。
 政治の世界ではこれが極端に多い。

 駆け引きのうまさや、庇理屈の付け方に感心したりする。
 結局、ベストなものはなかなか見つからないから、極力ベターなものを選ぶようになる。
 アメリカなんかは、自分の所が全て善で日本は悪だもんな〜。
 あ〜嫌だ嫌だ。

 リバーシなわけですよダンナ!

平成4年1月3日

 黒が「マイ黒ソフト」、白がMacを表しているわけではない。
 偶然だがなぜか「黒と白」を比べて黒が勝つことが嫌な気持ちがする。
 それはMicrosoftのことを予言していたのだろうか?(ジョークよ!)
 改めて6年も前にこんなことを考えていたのかと思うと面白い。

平成10年7月28日

 7年も前に書いたこの記事を「リバーシ論」と設定して、再度発表することにした。
 文章がおかしい部分が有ったので、一部訂正をした。
 未だに7年も前に書き記した考えが、私の行動のどこかに生きているような気がしてならない。

平成13年8月10日

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最近思う

■ 「美味しんぼ」から何かを感じる。

 最近ひしひしと感じていることがある。
 「昔に帰ったほうが良いのではないか?」
 「現代はいい加減すぎるのでは?」と、言う疑問だ。

 発端は、小学館発行「ビックコミックスピリッツ」で現在もなお連載中の「美味しんぼ」である。
 以前は、必ずといってよいほど「最近の食文化は非常にいいかげんで、危険なもので溢れている」と、いうことが問題にされ、その度に後頭部をぶん殴られたような衝撃の連続だった。

 現代は人体に有害な農薬を使っていない作物など、ほとんど無い。
 そんな食料事情からか、有機栽培や自然食品などがブームになっている。
 だが、「嫌な世の中だ」と、嘆く前に押さえておかなくてはならい事がある。それは、農薬の発達によって農家の人の苦労が減り、生産力も上がったことだ。これは同時に、餓え死にする人も減ったということになる。

 江戸時代、国の力を米の生産量で現していたほど、我々日本人はお米に執着がある。いわゆる何万石という数え方だ。
 それを政府はアメリカの脅迫に負けて米を輸入しようとしている。
 世界的分業だと?
 お米のとぎ汁が水質汚染の要因だ?
 お米はダイエットの敵?
 ちゃんちゃらおかしいというしかない。
 自給自足で何が悪い。
 日本人を支えてきたお米の生産をアメリカなんぞに渡してはならないのだ。
 もちろん有機農方で作ったお米に越したことはないが、たとえ多少の農薬が入っていたっていい。
 農薬の量だってアメリカの使用量に比べたらずいぶんと少ないそうだ。
 ましてやアメリカで禁止している農薬を日本のオレンジに塗たっくって、「日本ではこの農薬は禁止していないから問題ない」と、いうような国なんかに屈服してはならないのだ。
 ずいぶんと横道にそれててしまったが、私は日本の農業をだめにしたくない。

■ 「大棟梁(だいとうりょう)」で開眼する

 そろそろ今回の本題に入らなくてはなるまい。
 私は今まで「美味しんぼ」などを読んで、もやもやとしていたものが残っていた。
 その答えを出してくれる本と出会ったのだ。

 インドには「必要になったときに師匠は現われる」という諺があるのだが、まさにそれを実感した。
 これは漫画なのだが、集英社発行、巨匠「ビック錠」画「大棟梁(だいとうりょう)」という本だ。
 宮大工、西岡常一青春伝と書かれた一見、伝記漫画に思えたのだが、ヤングジャンプの広告に直感的に何かひらめくものがあった。

樹齢千年の木を使った建物は千年もつ。

 本の内容は、できればぜひ読んで欲しい。
 最後の宮大工といわれる実在の人物が、棟梁になるまで、飛鳥の時代から引き継がれて来た、生命の根源に触れた奥義を伝授される。
 大工の扱うものは木である。木は土から育つ。だからまず宮大工は土を知らなくてはならない。木と話をし、まさに魂を注ぎ込んでお寺を建てる。
 日陰で育った木は建物の日の当たらない場所に使う。
 日向で育った木は正面の太陽がさんさんと照り付けるところに。
 同じ素材の材木を組み合わせたのでは、仏教を象徴する仏閣でなく、ただの木造建築物に成り下がってしまうのだ。
 自然の法則に添って全てのものが存在しているのが理想だ。

 これはこのまま人間にも当てはまる。
 今いる会社だって、色々な仕事をしている人がいる。
 それぞれの仕事を天職だと信じてに従事しているべきであるし、上司は適材適所を見極め、辞令を出しているのが理想だろう。少なくとも今自分は、今いる部署に満足している。

 「大棟梁」の中で、これは!と言うエピソードが有る。
 法隆寺を再建するため、主人公は飛鳥の時代の絵にあった「槍かんな」を復活させた。
 かんな屋に頼み、まさに槍(やり)に酷似した「槍かんな」を色々と作ってもらうがどうにもうまくいかない。
 そこに法隆寺に出入りしていた刀匠に相談する。

うまくいかないのは鉄がいけないのだ。
飛鳥の道具は飛鳥の時代の鉄でなければ。

 そこで飛鳥時代に使われていた「和釘」を打ち直し、「槍かんな」を復活させたのだ。
 これはどういうことだろう?

 今の世の中はコンピュータ時代で、人類の最先端のはずだ。でも、「槍かんな」を作る鉄は作れないのだ。
 どこかで聞いたことがある。

もう本当の鋼(はがね)は作れない。

 戦後の鉄には放射線があり、ある種の計測機器に使えないらしく、海に沈んでいる軍艦の部品を引き上げ、その鉄を使うそうだ。
 戦前戦後でもうこんなに違っているとは。

 鉄の質が悪くなったのかも知れないし、精練の方法がおかしくなったともいえるかも知れない。
 鉄を精練するのに山一つ分の木が必要だった時代だってあった。
 その木が石炭に変わりまた石油、原子力へと変わっていった。

 黒船が来て以来、日本は東洋思想から西洋思想へと切り替えてしまった。
 昔の人は苦労して自然の真理を追及し、日本にあうような技術に変え、現代まで伝えてきた。
 この自然に逆らわない考えは東洋思想の原点だ。
 木も鉄も物体であり、人間が力ずくで支配する。
 楽で便利ならそれでいい。
 これ、西洋思想。

 「大棟梁」の話に戻るが、法隆寺を直すための、樹齢千年を越す木がすでに日本にはもうほとんど無く、台湾産の桧ひのきを使いざろうえないという。
 だが、日本の建物に使う木は、日本の風土で育った木が最もあっているのだという。
 同じであったと思っていた木や鉄が、違って見えてきた。
 悲しいかな、全てのものが悪い方向に向かっているように思えてきた。
 こうなるとレトロブームなんてなまやさしい。

 今すぐ山にこもり、自給自足の生活をしたくなる。
 でも、二十四年間都会で育ってきた自分にはしょせん二、三日のキャンプぐらいしかできない。
 結局自分は、口先だけの偽善者だ。

■ エコロジーブームで救われるか?

 いやはや、自分で自分が嫌になるとは、少しは成長した証拠なのかも知れない。
 レトロブームなのか、いきなり「山本リンダ」や「西条秀樹」が売れ出してきた。
 昔のものでも今、十分通用するということは素晴らしいことだ。

 でも今それ以上に「エコロジーブーム」のようだ。
 異常気象、オゾン層の破壊、酸性雨、つい最近のことではないはずなのに、新聞雑誌、テレビは競って「地球はもうだめになっている」と書いている。
 「ノストラダムスの大予言」も相乗効果としてすごい。

 そこでエコロジーというわけだ。
 でもエコロジーというのは、環境問題を指すだけの言葉なのか?

 絶滅しそうな動植物を助ける
 割りばしを使うのを止める
 水道水は止め、ミネラルウオーターや浄水器の水を飲む
 無農薬野菜を選ぶ

 こういうテーマの事をするのがエコロジーなのか?
 エコロジーで思い出したが、このエコロジーという言葉で、金儲けを考えたり、ナンパの手段に使うやつもいるのに超〜腹が立つのだ。

 「我が社は環境問題を考えています。」などと宣伝はしているが、本質的に企業イメージのアップしか考えていない。
 最近「天然のヤシの実(パームヤシ)から作りました。」と宣伝している洗剤が出ている。
 ちょっと待て!パームヤシは日本では一滴も生産できない超貴重品だぞ!
 全て輸入品で、ジャムの大瓶ぐらいの大きさで八千円はするし、秋葉原で売っているパームヤシ洗剤はコンパクト洗剤サイズで千五百円だぞ!
 つまりパームヤシなどほんの数%しか使っていないのだ。(そんなこと知っているやつはいないだろうけど。)
 そもそも石鹸は、ナタネ油などの普通の油にアルカリを反応させて作るものだ。
 天然の油ではコストが高くつくから石油を使う。
 これを全て「合成洗剤」と呼ぶ。つまりシャンプーや歯磨き粉も含まれるのだ。
 これが非常に有害で、水質汚染の真の正体が、家庭排水の合成洗剤であることを誰も触れようとしない。

企業は「おはようからおやすみまで」大もうけである。(キートン山田風)

 「台所は海の入り口」という宣伝があるが、企業もやばいことを薄々気付き始めているし、本当の対策を行政レベルで対処すべきだ。

 次にエコロジーでナンパするやつ。
 テレビで、巷の「おぼっちゃま」を紹介する番組があった。だが、出てくる奴が皆ろくでなしばかり。
 親の金で大学入って外車を乗り回し、見かけはトレンドなナンパルック。
 レポーターの女の子と、よく行く高級レストランや飲み屋に案内され、最後に将来の夢を聞かれる

 「僕の夢は政治家になることなんだ。そして砂漠に木を植え緑で一杯にしたいんだ。」だと。

 レポーターの女の子は感心して「ふーん、○○君見かけよりしっかりしているんだね。」

 おーい!砂漠とは昨日や今日、砂漠になったのと違うんだぞ!
 あれでもちゃんとした生態系の一部であるし、自然の摂理にしたがって、あんなになったんだ。
 砂漠が緑になったって、てめーが住むわけじゃないんだろ!
 ずばり!下心が見え見えでしょう。

 とにかく、現代はプラスチックの時代だ。人類の作った究極の物質。
 発明されてからこんな自由になる物質はないが、何十年、何百年経とうが分解されない究極のゴミにさえなる。
 ビニール袋、合成繊維、発泡スチロール。これを使って大もうけをしたのは、スーパーマーケットであるが、究極のゴミ事情を背景に、変わり初めている。

 例えば、買い物カゴをもって行きレジで「ビニール袋はいりません。」と言えば、スタンプをカードに押してもらい、カードがいっぱいになったら、何百円かサービスになるとか、細菌で分解する新しいビニール袋にするとか、企業努力をするところが増えてきた。

 あとはそれに同調する国民がどれだけいるか?ということだろう。

平成4年1月上旬

 実はこの話は書きかけのようである。
 なぜ途中でやめたかは記憶にない。
 とりあえず若干の訂正や補足をして発表することにしよう。

 当時の自分の考えや知識が、異様に鋭いのが面白い。
 今は腰抜けということだろうか?

平成10年7月28日

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わかわか

 某月某日

 電車に乗っていると、まだ小学生にもなっていないだろう子供たちが3人ほど入ってきた。
 親が近くにいたのかは解らないが・・・

 その子供たちはイスに座ろうとしたのだが、席は一つしか空いていない。
 一番のちびっ子がそこにぱっと座ると・・・

 「おまえ俺より若々(わかわか)だろ!俺に代われよ!」

 こんな子供が「権利と義務」を主張している!
 子供の言うことだからその場では微笑んでいたけど、よくよく考えると怖い・・・・

平成3年秋頃

 当時この話を書くはずだったのだが、探しても出てこない。
 鮮明にこの話を覚えているのにだ。

 当時なぜ書かなかったのかは不明。
 急にこの話題だけは書かなければと思った。

平成10年7月28日

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目付きについて

 もう何年も高校時代の仲間と会っていない。
 電話でもすればよかったのだが、これといった用事も無かったし、長電話はしたくない。
 年賀状も出さなかったなぁ。
 それでも、ここ何年も顔を合わせていない友人は今ごろどうしているだろうか。
 中には、顔形や体付きが変化している人もいるかもしれない。
 そういえば、先輩の結婚式で、数年ぶりにあった某先輩は、頭が寂しくなっていた。
 在学当時ではとても考えられない姿だった。

 さて、自分のことだが、体重は高校当時より約10キロアップ。身長は変わらない。
 筋肉も増えたが、おなかの脂肪が気になりだした。
 それより、よく「厳しい顔になった」と、言われる。
 この仕事について早五年、まもなく24歳。

 中堅クラスにもなったし、いつまでも新卒みたいに、言われることだけやるのでは済されない。
 苦情処理係として、向かってくる敵?に対し、毅然とした態度で向かわなくてはならない。
 おのずと、厳しい顔つきになってくるものだ。

 特に目つき。どんな相手でも目で負たらおしまいだ。(あ!もちろん変なことをごねる客のこと)
 相手がやくざだろうが、右翼の隊長だろうが、時には睨み返してやらなきゃならない時だって、何度もあった。
(はったりよ!はったり!)

 初めての宿直の朝、鏡を見て驚いた。
 なんとも眠そうな、とろんとした目であろうか!
 こんな目を見られたら、一発で馬鹿にされる。
 そう思った私は必死になって、目つきの鋭い、睨みの効く顔にしようと、鏡の前で顔を作ったものだ。
 (眠くて虚ろになった目を細めるだけなんだけど)

 もう徹夜しても眠くはない変わりに、目が悪くなった。(どちらかと言うと、日中は眩しいので、目を細める)
 楽しみと言ったら食べる事と、寝る事。
 時には通行人を睨み(あまりの眠さに腹が立っている)、得意先周りで歩きながら居眠りをし(気がつくと道路の真ん中!)、どこから見ても立派な企業戦士になった。(中身は保証できない)

 私の鋭い目。
 それは、睡眠と食料を求めるハングリーな目だ。

平成3年11月23日

 自分で言うのも恥ずかしいが、このころはずいぶんと仕事上のことで悩んでいた。
 文面からして何か堅い気がする。

 若かったということだろうか(^。^;)

平成10年7月28日

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