八方美人

2001年9月17日 / 役に立たない韓国語

 今から10年近く前の話だ。
 平成3年11月4日、「文化の日」の振替休日。
 電車に乗っていると中学生と思われる女の子二人が話し合っていた。

    A子「ねー、B子。C子ったらホント頭に来ちゃうんだよ!」
    B子「えー、どうして?」
    A子「この間さー、みんなで学園祭に行こうって話してて、C子も誘ったの。」
    B子「それで?」
    A子「「D子さん達と行く約束したの」って言うから、私どこの学園祭に行くか聞いたの。そしたら、私達と同じ所行くから、「向こうで会うかもしれないね」って、言ってたくせに違う学園祭に行ったんだって。頭来ちゃう!」
    B子「?」
    A子「それなのに、C子ったらなれなれしいのよ!私のこと「Aちゃん」何て名前で呼ぶのよ。」
    B子「いいじゃない、同じクラスの子なんだから。」
    A子「嫌なの!私は仲良しの子としか、話ししたくないの。」
    B子「おかしいよ!そんなの。」
    A子「じゃー、八方美人に誰とでも仲良くしろって言うの!嫌よそんなの!」

 私は、その時「八方美人っていうのは、そんな使いからをする言葉じゃない!お前みたいなこの前までランドセルしょってたやつが、ませた口きくんじゃない!」と、意見してやりたかったが、喉まで出かかって辞めた。

 このように、日本で「八方美人」という言葉は「誰にでもいい顔をする人」という悪い人を比喩する言葉として使われている。
 四文字熟語と言うものは中国から伝わってきた言葉が多いと思うが、その歴史をひも解くとだいぶ意味が違う場合が有る。
 韓国では中国の話をそのまま伝え、現在も本来の意味として使っている場合が有るため、日本で歪曲して使っていることに気付くときが有る。

 韓国で「八方美人」と言うのは「出来ないことが無いような、あらゆる才能のある女性」という意味として使われる。
 日本のように男には使わない言葉だそうだ。
 だが間違った認識の方が標準化してしまうと、今更「それはそういう意味ではない」といくら力説したって、人の心を変えることは非常に難しい。

 私は韓国語を勉強するまで韓国・朝鮮人に対して偏見は持っていなかったものの「ばかちょんカメラ」という言葉位は結構使っていた。
 この言葉の意味は「馬鹿でもチョン(朝鮮人)でも使える」という差別用語だと薄々感じていた。

 ところがこの「チョン」というのは韓国・朝鮮人の事を言うのではなく、「おろかもの」というれっきとした日本語で、 江戸時代から使われていた言葉だという記事を見つけた。

中野康明の雑学ペ-ジ
http://sunak2.cs.shinshu-u.ac.jp/~nakano/misc/lang35.html

 私も中野先生のおっしゃることが、本当だか嘘だか確認したわけではないが、中野先生がおっしゃっているように、現実に「使用不可」とされてしまった言葉をこれ以上使うことは無いと思っている。

 ただ個人的には言葉とは「その状態を一言で表現することができ、多数で共感できる」という便利な物だと思う。
 私の子供のころ見ていたアニメの中にも、再放送でどういうわけだか言葉がカットされてしまった物も沢山有る。
 そのカットされてしまった言葉とは「差別用語」として認定されたものであろう。
 私より一回り下の人間に、その「差別用語」を言っても全くわからない事もある。
 差別用語を無くせば、その内、差別の意識まで無くなるというのだろうか?

 人の言葉じりを「虎の威を借る狐」のように、やたら突いてくる人間もいる。
 「言葉狩り」と言うやつだ。
 一昔前までは考えられなかった、凶悪な事件や、人を人とも思っていないような馬鹿な連中が起す事件が連日ニュースで流れている。
 そんな中で、某東京都知事が警察学校の学生に「最近キ●ガイが多いから気を付けてくれ」と言っていたそうだ。
 おそらく一部のマスコミは「精神障害者に対する差別意識があるから、そんな酷いことを言えるんだ」と論じたかも知れない。
 だが私も都知事が言ったことは現実だと思っている。
 「世の中にキ●ガイ何て危ない人なんか、どこにもいないんだよ。安心していいんだよ。あのオジサンは間違ったことを言ったんだ。」と言う人間がいたとしたら、私はそんな人の言うことは聞かない。

 昔読んだ漫画の中で「まともなふりをしているキ●ガイと、キ●ガイのふりをしているまともな人間はどちらも同じくらい危ない」と言うセリフが印象に残っている。
 人間、自分ではまともなことをしているはずなのに、もしかしたら人に害をなすような事を平気でやっているかも知れないということも言えるだろう。

 結局、八方美人という一つの言葉が、韓国と日本で全く別の意味をしているといっても、それは何かの動作や、物体を表現したいという「心の中」が違っているのだから、表面化してくる言葉が違うからと割り切って考えることもできる。
 心の中を的確に人に伝えるのが「言語」なのだ。
 そして表面化した言葉が全て心を表している、他人に伝わるとは限らないのである。

<01/09/17>

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