「嫌韓流」にもの申す?(2)

2006年5月24日 / コラム


 漫画「嫌韓流」に対抗するために出版された本である。
 さて、どんなことが書かれているかというと、まさに嫌韓流で書かれているエピソードごとに反論を繰り広げている。


 この本の感想を述べる前に、今一度「嫌韓流」に関してコメントしてみたい。
 そもそもこのショッキングな本はなぜ世に出ることになったのだろうか?
 そして、この本が出ることになった時、なぜ出版社やマスコミがこぞって無視を決めようとしたのだろうか?
 この本が出ることによるデメリットは計り知れなかったと思う。
 そのデメリットってなんだ?
 「韓流」という言葉が広まってかれこれ3年近くが経っている。
 火付け役は、ペ・ヨンジュン、チェ・ジウ主演のドラマ「冬のソナタ」であると言って間違いないだろう。
 それまで一番近い外国であった「韓国」に対する友好意識が急激に高まった。
 韓国ドラマに群がるおばちゃんが、世の中を動かした。
 それは間違いない。
 だが、それをよく思っていない人達がいたのも事実。
出る杭は打たれる
的に、盲目的に韓国ドラマなんぞにうつつを抜かしている人々にもの申す!
 そういう意図があって発売されたと思っている。
 読んでみると、日本人としては小気味いいフレーズがたくさん出てくるし、漫画という手法をとっているので、オーバーな表現も多い。
 だけど、それを100%受け止めていいものだろうか?そういう疑問の方が多かった。
 そう思っていたところ、今回この本が出版された。
 感情的ではなく、どのように「嫌韓流」に対抗して行くのだろう。
 とりあえず数十ページ読んでみたのだが、結構「嫌嫌韓流」側としては良い資料を提示していると思う。
 それこそ盲目的に「嫌韓流」に書かれていることを100%信用してはならないなと思わせることが書かれていたと思う。
 ただ、それでもなお、この「もの申す」に書かれていることを100%信頼してよいかどうか疑問が出てしまうのだ。
 まず戦後補償は終わっているのか?について見てみれば、「嫌韓流」では「完全に終わっている」とし、「もの申す」ではまだ終わっていないとしている。
 どうしてこうも結論が違っているのだろうか?
 「もの申す」で書かれていたことなのだが、ようは一般に公開されている「日韓の交渉に関する資料」がほとんどないからとしている。
 国のトップレベルで行われているはずの交渉が、一般人に公開されていない…
 それじゃどちら側の主張も信用しがたいと思う。
 一応「もの申す」側の主張としては「流出した資料を元に」などという表現を使っていたが、先日の民主党議員が破滅したメール問題と同類で、それを根拠に「まだ保証が終わっていない」というのは、いささか説得力に欠ける。
 国と国の交渉なのだから、どこかで妥協点を見いだしたり、とりあえずこれだけの保証をしましたと言っても、まだまだ納得いかない!と言うことも有るだろう。(もの申す側では、一応資料として保証金額の低さを指摘していた)
 そしてここでも
朝鮮半島は日本との合併を希望していなかった
武力による併合は無効である

と主張している。
 50年前の状況について小生は歴史教科書に書かれていたこと程度の認識しか持っていない。
 そしてさらにその50年前の状況など想像もつかない。
 これは韓国人としては屈辱的な歴史であるに違いないが、
誰が好き好んで近代化を望むだろうか?
の下りを読んで、それを言ったらおしまいよ…という寅さんの台詞が頭をよぎる。
 そして、今の段階でこの本では目にしていないが、あの「侵略(合併)が無かったら、朝鮮半島はもっと近代化していたはずだ」という、どこかで聞いたことのある主張につながるような気がする。
 次に韓国人に対する差別意識に関する問題だが、この本ではしばしば石原都知事の言を用いている。
 以前石原都知事が「三国人」という言葉を使って、マスコミからたたかれた。
 ご本人はそういう意図があって言ったのではないと釈明していたが、やはり差別意識の現れだというバッシングはあったようだ。
 正直、そういう話は私の記憶には全くない。
 さて、この本で「三国人」に関する意味について某辞書の内容を引用して「やはり差別発言だ」としている。
 だけど、辞書に載っている言葉が100%額面通りに使われているとは限らないことは、毎日のように新しい単語を作ったり、紹介しているマスメディアの激流に身をさらしている一般人としては「そんな一方的な解釈、言い方でいいのか?」と疑問を持つ。
 なにしろ、辞書を引用しておきながら、三国人の意味として「差別用語として使われて来た歴史背景が有るから現在は使われていない」としている。
 これって言葉狩りの一種だと思う。
 差別される側?としては言葉を刈ることによって、歴史的背景までうやむやにし、意図して悪い意味として使っていなくても、差別だ!と言い張る。
 同じような言葉で「馬鹿でもチョンでもできる」という言葉も有るが、これも刈られた言葉の一つだと思う。
 チョンというと朝鮮人の蔑称という意味が有るが、そもそも江戸時代からある「間抜け」に近い言葉であり、決して韓国・朝鮮人を悪く言う言葉ではなかったが、いつの頃からか「チョン」の中に朝鮮人が含まれるようになってしまった。
 もしくはその言葉に対する藩閥が朝鮮人の中から発生したのだと思う。
 私はこのことに関して、絶対に誤解が多いと思うのであえて使いたいと思わないが、時代の中で一つの言葉が消えて行くむなしさを感じた。
 他にも小中華思想を取り上げた項目では、聖徳太子が「日イズルトコロノ天使カラ」というあの外交を、「自己中心的で無礼を犯した」としている。
 歴史の授業で習うことであるが、なんとも強気なことをしたものだと子供ながら思ったものだ。
 それを無礼者扱い、自己中心的なものとして、韓国の小中華思想をけなすにはおこがましいというのは、なんともよくわからない。
 無礼者扱いされた中国はどうなった?
 それは韓国の教科書に載っているかわからないが、一応成功した外交だと思っている。
 ようは外交なのだから、結構汚いことをやったりするわけで、お互い様程度の認識しか持たない。
 いちいち批判するのも長くなるので、ここで一旦筆を置くことにするが、この本も「目的」を持って書かれている。
 それは表紙に書いてある通り「韓国批判なんかやめて仲良くやろうよ」というものだろう。
 だけど、市民レベルで仲良くなろうと努力しているのに、トップレベルではケンケンガクガクの状況だ。
 まだ読んでいないが竹島問題に関してどのような反論が書かれているか楽しみである。
 保証問題にしてもトップレベルで擦り合わせをすればいいのに…
 このような批判本、批判本に対する批判本で重箱の隅をつついているうちは、ダイナミックな友好の話はまだまだ先送りするしか無いと思うのであった。
 さて、今日は韓国語学校に行けそうだ。
 学校の話はまた後ほど。
曇りのち雨

“「嫌韓流」にもの申す?(2)” への1件のコメント

  1. 奥戸商会 より:

    歌は世につれ、世は歌につれなんていいますが、単語の意味も時代や世情によって大きく変わってしまうことがありますよね。
    言葉狩りの意図は全く無いのに日本の公共施設での『外国人』を意味する英語表記がAlienからForeigner変わったというエピソードは有名です。

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